万研列伝 2007

(※フィクションとしてお読み下さい\(^O^)/)


――大分編(2007年6月7日〜6月8日)――

 ファーストサンプリングから一年。いよいよ子供の頃から願っていたマンボウ研究を本格的に始めた。
「君たちがしてきたことはただの自然破壊じゃないのか?」という波紋を呼ぶ同研究室の教授の発言を乗り越え、4年間通った大学は無事卒業した。
 そして、就職か博士課程か悩んでいた二代目は就職することに決め、初代やこれまでの多くの研究者同様、一定期間の研究を終え、研究者の世界から離脱した。

 そして4月。初めての一人暮らし。
 新しい環境で気合を入れて研究を始めようと意気込んでいたが、空回りばかりしていた。
 見事なまでに五月病にかかり、心は荒れ、病みまくっていた。
 大学院に入って早々、大学院をやめたくて仕方がなかった。
 これには大きな理由があった。


 研究の仕方がわからない。


 二代目が卒業する前にいろいろ研究の引き継ぎや相談をしたのだが、実際に研究を始めてみると、卒業研究と大きく異なる研究のため、どうやってサンプルを得たらいいのか、苦悩の日々が続いた。

 一つ、英語を読むのが苦手。
 一つ、他人とメールや電話のやりとりをするのが苦手。
 一つ、文献の集め方がよくわからない。
 一つ、マンボウの何を研究したいのか未だに決められない。
 一つ、受け継いだサンプルがイマイチよくわからない。
 一つ、サンプリングにはお金がかかる……

 などなど、悩みの種は尽きなかった。
 望むものならサンプルが自動的に入手できて、一人で研究を行いたかった。
 二代目から引き継ぎ、三代目のマンボウ研究者となったのに、一人であれもこれもしなければならない現実と、謎のプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。
 結局、4月から6月まで、ロクな日々を過ごさなかった。
 時には病み過ぎて、一日中、飲み食いしないで家で寝ていることもあった。

 趣味を仕事にすると、壁にぶち当たった時、救いが無いというが、それを身を持って体験した。

 このままではいけないと思い、去年コネクションができた大分のとある施設に連絡を取ってみた。
 その施設はマンボウを冬から初夏にかけて一定期間プールでマンボウを飼育するという日本でも変わった施設である。
 連絡を取ってみたそこにはマンボウがたくさん泳いでいた。
 しかし、研究を行う上で、大きな問題があった。

 二代目の行っていた研究はDNA解析+形態学的調査から行う『マンボウ属の分類』。
 この時、日本近海に出現するマンボウ属は遺伝的に遠く離れた二種がいることが明らかになっていた。
 そのマンボウ属二種は形態も異なることがわかっていたが、形態学的なデータがまだまだ乏しい。
 そこで、その形態学的調査も引き継いでデータを補強しようと考えていた。
 二代目は外部形態のみだった。二種で外部形態が異なるなら、内部形態も異なるはず。
 漁獲されたサンプルはできる限り多くの分類形質を調べてみたいと考えていた。
 形態学的調査を行うには時間がかかる。内部形態を調べるなら捌く必要がある。
 すなわち、生きているマンボウでは研究ができないのだ。残虐的に言うならば、殺さなければならない。

 向こうは一定期間マンボウを保護する形で飼育している。
 しかし、こちらはマンボウを捌きたい。
 意見が合致しない。
 サンプルが欲しいと何度も取り合ったが、向こうもマンボウを見世物にしているため、それはできないとの話に終わった。

   しかし、大学にいても海からは遠く、サンプルが得られることはない。
 何でもいいからマンボウと触れ合える環境に行きたかった。

 その施設では毎年6月初旬から中旬にかけてプールで飼育してきたマンボウを放流するイベントがある。
 形態学的調査は無理だが、DNAサンプル採取くらいなら生きているマンボウでもできる。
 もう一つ、せっかく放流するのだからタグを付けて放流をしてみてはどうかと考え、初の自力の調査を行うことにした。
 それが一泊二日の大分サンプリングだった。

 大分に着いた。
 ある意味、ここは筆者のマンボウ研究の始まりの地でもある。
 2006年3月、ここで人生初めてマンボウを触った。
 2006年6月、最初で最後の現研究室の初代から三代目までのマンボウ研究者が揃ってマンボウ放流を手伝った。

 今年は初代も二代目も仕事に忙しいとのことで、一人だった。
 イベントの前日入りして、大分のマンボウ事情を聞き、翌日、ウェットスーツでマンボウの泳ぐプールと向き合った。
 イベントが始まる前に先にプールに入ってもいいことになり、マンボウの泳ぐプールに入る。
 そして、マンボウの泳ぐ姿をハウジングの付けたデジカメで撮った。
 と、一匹のマンボウが底に沈んでいる。
 よく見ると死んでいた。体が皺だらけだったことから、人に懐かずに餓死した可能性があった。
 職員に知らせ、式典前に冷蔵してもらった。
 死んでしまったマンボウはいらないとのことで、三代目マンボウ研究初のサンプルが予期せぬ形で手に入った。

 その後、マンボウ放流式が始まり、式によくある挨拶が終わった後、地元の小学生が合唱する。
「マンボウ・マンボ」というマンボウを謳った歌だった。
 そして、放流開始。
 ここからが筆者にとっての戦闘開始だった。
 職員や水族館の助っ人に手伝ってもらい、マンボウをプールからプールの外にシーツにくるんで運び、地面に置いた後、胸鰭を少し切ってDNAサンプルを採取。
 全長と全高を計測し、舵鰭の特徴を調べ、背鰭の付け根にタグを打って、子供たちと一緒に海までマンボウをくるんだシーツを運んで放流。
 マンボウは十個体以上いたので、短期間にハードな作業だった。
 マンボウの胸鰭を切ったり、タグを打つ作業を見て、子供たちからは「可哀そう」という声が聞こえた。
 おそらく、子供だけでなく、大人でもそう思っていた人はいたことだろう。
 これまでも、そしてこれからも、生物学者はこうして理解の得られなかった周囲からの忌諱的な視線を投げかけられながら調査を行っていくのだろうと感じた。
 しかし、これは人類がその生物の知見を得るために、誰かがやらねばならないことなのだ。
 可愛い生き物は傷付けてはならない、でも例えば蚊はうっとおしいから殺してもいい。
 その考え方は間違っている。両者とも同じ生き物なのに……不公平だ。
 様々な考えがめぐった。
 しかし、この筆者と似たような考えは5年後に、アーニー・スモールの研究によって「保護の取り組みは人の目から見て美しく見える種が優先され、醜く見える種は無視されがちな傾向がある」という内容で世間に発表されることになった。

 死んだ個体は持って帰るには大きいので、送ってもらうことにした。
 翌日、冷蔵で届いたマンボウは内臓が腐っていて、体中がボロボロで良いデータは取れなかった。
 しかし、これから本格的に調査を始めるにあたり、マンボウの形態を前もって調べることができたのは大きかった。
 サンプルが得られたことで、少し自信が付いた。ここでわかったのは、『現場に行かなければならない』ということ。
 海から遠い大学にいても研究は進まない。しかし、サンプリング地に行けば何かしら研究は進展していくのだということだった。


――岩手編(2007年6月17日〜2007年11月16日)――

 マンボウの研究が難しいことなんて最初からわかっていた。
 あらゆる時代、あらゆる国々の研究者がこの難題に挑み、儚くも無謀な現実を知って散って行った。
 二代目は言った。
「マンボウ研究が進んでいない現状には、それ相応の理由がある」
 迷惑をかける事は最初からわかっている、だから無理を承知でわかってほしい。
 この研究は決して一人の力ではできない。
 この研究には多くの協力者が必要だ。
 人付き合いが苦手でも、潔癖症の毛があっても、不器用でもがんばるから、がんばりたいから。
 だから、協力してほしい……

 夜行バス、ネットカフェ宿泊、電車……数日がかりで岩手に向かう。
 しかし、その前に寄る所があった。
 二代目の研究にかなり協力してくれた存在がいる。それがXだ。
 二代目にXを紹介されて、メールのやりとりは何度かしたが、実際に会ったことはなかった。
 岩手に行く旅路の中で、Xに会って、引き続きマンボウ研究への協力を得たいと考えていた。

 会ってみると、協力は問題なくOK。
 これは心強い。
 Xはすでに博士卒の研究者だ。二代目に協力したならマンボウ類に関する文献も持っているのかもしれない。
 そのことを聞いてみた。
 すると、二代目が集めた文献の多くはX由来であることがわかった。
 しかし、何でもいいから見せてほしいと頼んで出てきた文献は、二代目が持っていない文献だった。
 英語……心がズンと重くなったが、将来的に文献は手に入れられる時に手に入れる時がいいと思い、がむしゃらにコピーさせてもらった。
 共同研究者としてXとコンビを組めたことは、この研究にとって大きな存在となった。

 そして、岩手に到着した。
 岩手に到着すると、すでにセンターの職員がマンボウを2個体突きん棒で付いて冷凍してくれていた。
 これは嬉しい。
 しかし、180pクラスの個体はなかなか溶けるのを待つのが大変だった。

   最初のサンプルからその後、筆者は病んでいた。
 岩手に着き、漁師にマンボウが欲しいと話をし、毎朝6時前に起きて電話を待てども待てども連絡が来ないまま3週間が過ぎた。
 待つしかない。しかし、待っているだけでは研究は進まない。
 サンプルが得られないことには何もできない。
 心は荒み、マイナス思考が広がっていく。
 五月病の名残で、研究に向いていないのではないかと思い、辞めたくなった。
 親にはいつでも辛くなったらやめていいと保険をもらっている。
 毎日マンボウ漁獲の電話を待ちながら、悩んでいた。
 唯一の楽しみは「プロポーズ大作戦」というドラマ番組だった。
 幼馴染が結婚するのを諦めきれない男が、過去に何度もタイムスリップして、彼女の好感度を上げ、現世での印象を書き換えるという内容だった。
 そのドラマの中で、『明日やろうは馬鹿野郎』という言葉は印象的だった。
 リアルな人生は一度きり。フィクションのような奇跡は起きない。
 待つことがただひたすらむず痒かった。

 不安定な精神状態の中で、ようやくサンプルが獲れたとの連絡が入る。
 今でも印象深い、自分でサンプリングした1個体目。
 この後は、Nの協力もあり、サンプルはドンドン獲れるようになった。
 センターではWがマンボウの研究をするとのことで、一緒に研究を行うことになった。
 これは大きな助力になった。時に一緒に定置網に乗ったり、車でサンプルを運んでもらった。
 少しずつ、サンプルを得ていく。
 ただひたすら、漁師からの電話を待ちながら……


 センターが1週間ほど夏休みに入るとのことで、一旦、岩手を離れ、大学に帰った後、1ヶ月ほどして再び岩手に戻った。9月後半でもサンプルは得ることができ、短期間滞在後、北海道にサンプリングに行く予定を立てていた。

   北海道から戻ると、岩手はすっかり寒くなっていた。
 しかし、ここで転機が訪れる。
 これまでは車で30分くらいかかる場所に、電話がくればサンプルをもらいに行っていた。完全な『待ち型』サンプリングだった。

『待ち型』はできる限りサンプルがもらえるようにと様々な漁協に声をかけなければならない。しかし、早朝同時に異なる場所でサンプルが獲れた場合、かなり大変だ。
 獲れた場所が反対方向なら、船を待たせるロスにもなる。また、サンプルは海の状態と漁師の都合によっていつ獲れるかわからない、電話はいつ鳴るかわからない。
 なので、気楽に眠れない。いつ電話が鳴ってもすぐに行けるようにスタンバイしておく必要がある……
 ハッキリ言って、『待ち型』は性に合わなかった。精神的に疲れる。

 しかし、セカンドシーズンのサンプリングで、センターから自転車で行ける近い漁協で、サンプリングの交渉が成立した。
 毎日定置網に乗って、その時にサンプルが獲れればもらって帰る。定置網の漁獲も手伝う。
 漁師から電話を待つのではなく、自ら船に乗りに行き、サンプルを得る。
 肉体派の『攻め型』サンプリング。
 これは性に合っていた。
 毎朝2時に起きて定置網に乗る必要性があるが、来るか来ないかわからない電話を待ちながら過ごすよりも、目の前でサンプルがあるかないかを直接見ることができるこの『攻め型』サンプリングは精神的疲労が無い。

 漁協が休みである日曜以外は、ほぼ毎日定置網に乗った。
 時にはサンプルが獲れすぎて、一日で処理しきれずに、二日に渡って調査することもあったが、研究はようやく波に乗り始めた。
 時に、マンボウは大きすぎてWと二人では計測できないことがあった。
 そんな時は、センターにいる研究者に計測を手伝ってもらった。
 日中はほぼ毎日マンボウを解剖していたので、この期間にセンターを訪れた人は筆者のことを知っていたことだろうと思う。
 11月に入り、マンボウが獲れなくなってきてから、サンプリングは終了した。この時点でサンプルはおおそよ50個体程度だった。

――北海道編(2007年10月2日〜2007年10月4日)――

 10月。岩手から学会が開かれるのとサンプリングを兼ねて、北海道に。
 夏にネットで調べてヒットした北海道の漁協に、サンプルが獲れたら冷凍保存しておいてほしいと伝えていた。
 幸運にも二ヵ所でサンプルが手に入り、それを受け取りに行くことになった。
 人生初の北海道。しかし、漁協への交通手段がないとのことで、ペーパードライバー歴数年の筆者が勇気を出して、レンタカーを借りて漁港に向かった。
 車を運転する感覚はあまり性に合わなかったが、なんとか無事、漁港に着くことができた。

 保管してもらっていた冷凍サンプルをもらい、大学へ冷凍輸送。
 翌日、船に乗せてもらえるか交渉したところ、船に乗ってもいいとのことで、そのまま車中泊した。
 岩手の定置網と違ってサケを獲る専門の定置網。小さかった。
 朝は寒かった。新たなサンプルは獲れなかったが、どうもマンボウA種が北海道にもいるらしいことがわかった。
 学会には参加したものの、自分が発表しない学会ほどつまらないものはないなということを感じた。
 次に参加する時は、発表したいと心から思った。




 サンプリングを終え、研究室に帰ると、就職活動が待っていた。
 ドクターに進む気もなかったので、同期と同様に慌ただしい日々が始まった。
 就職活動の間は、全く研究ができなかった。
 最初は応援してくれていた二代目とも、いつしか音信不通になってしまい、以後、連絡を試みても全く繋がらなくなってしまった。


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 2012年1月19日作成 2012年7月25日更新


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