万研列伝 2011

(※フィクションとしてお読み下さい\(^O^)/)


――ヨーロッパ編(2011年5月15日〜2011年6月12日)――

 『未来は無限』の可能性を秘めている。しかし、過ぎ去った結果である『過去は有限』のはずである。
 有限であるならば、いつかこの世にあるすべての論文を収集し、整理することができるはずだ。
 研究者にとって、どこまでの知見が明らかにされていて、どこからわかっていないのかを知ることは、今後の研究を見据えることで重要である。
 なので、研究者は本を読む。暇があれば文献を自分の知識に入れる。
 昨年の後半から本格的に始めた文献整理は既に200冊を超えていた。
 マンボウ類の文献は100冊ぐらいかと思いきや、過去を探れば探るほど、化石群のようにザックザック出てくるのである。
 しかし、マンボウ類は巨体であるため研究しにくい魚だ。
 他の水産重要種であれば、1000冊以上、もしくは万単位に上る文献が存在するのかもしれない……

 果てしなき孤独な戦いに身を投じていた冬、初代からこんな軽い感じのメールが届いた。

「ちょっと五月に二週間くらいヨーロッパに行ってマンボウ獲ってくるよ」

 ビックリした。
 この頃、初代は会社から外国語を学んで来いと海外に飛ばされ、留学していたのだ。
 詳しく話を聞いてみると、学生生活で数週間休みを取ることが可能で、ヨーロッパにマンボウを研究している知り合いができたからサンプリングに行ってくるという。
 この時、ピンときた。
 今年のサンプリング計画は皆無。
 一生に一度なら私費でヨーロッパにサンプリングに行ってみてもいいのではないかと。

 早速、初代に同行したい旨を伝え、本格的にヨーロッパサンプリング計画が始まった。
 初代は既に一度、そのヨーロッパのマンボウ研究者に会ったことがあるらしい。
 そして、紹介されたのがLだった。
 初代、L、筆者の三人でメールのやりとりをして、予定を詰めて行った。

 ヨーロッパは物価が高い。ヨーロッパは日本から遠い。
 この時、初めて飛行機の乗り継ぎを行うという試練が待ち受けていた。
 また、Lは日本語が通じない。
 確実に期待よりも不安しかなかった……


 そんな矢先、3月11日。世界を震撼させた未曾有の大災害、東日本大震災が起こった。

 その日、文献整理の気晴らしに何となくネットを見て、そんな大きな地震が起こったことを知った。
 筆者の住んでいる地域は微塵も揺れなかった。
 しかし、研究室メンバーから続々と情報が飛び込んでくる。
 夢ではなかった。
 その大地震の震源地は修士課程で毎日、マンボウサンプリングに明け暮れていた東北だった。

 三年前に岩手にいた時、実際に大きな地震を現場で体験した。
 かなり揺れてビビったが、その後特に大きな支障は起こらなかったので、今回も大丈夫だろうと思っていた。
 しかし、ニュースの映像が飛び込んでくるとあの時の地震と規模が違うことを知らされた。
 大津波。
 町を襲うどす黒い波は、車や家をいとも簡単に破壊していく。
 映画の特撮シーンのような現実味のない光景に思えてならなかった。

 筆者がサンプリングに明け暮れていた岩手の町は、センターは目の前が海だ。
 あんな嘘みたいな津波がやってきたらひとたまりもない。
 センターに滞在時にお世話になった知り合いにメールを送りまくったが誰からも返事は帰ってこなかった……

 東日本が大変な時に、自分ができることは何なのか?
 そんな何をやるにも集中できないふわふわした時間が流れた。
 被災地の電力が回復し、情報が集まってくると、筆者の知り合いは一人を除いて全員無事だった。
 ホッと胸を撫で下ろした。
 筆者の滞在していた時期に職員としてお世話になった一人の方は、その後退職され、消防隊員に入り、人々を誘導する中で津波の呑み込まれて行方不明になったと聞いた。
 彼がいなかったら獲れなかったサンプルがある。ご冥福をお祈りします。ありがとうございました。

 悪いことがあれば良いこともある。それが人生。
 奇しくも筆者の運命は重なる。
 この震災でふわふわしていた時期に、申請していた助成金が満額で当たった。
 研究は続けなければならないと言われている気がした。
 海外に行けと言われている気がした。
 これでヨーロッパサンプリングが楽になる。

 四月、関東圏でその助成金の授与式のようなものが開かれた。
 その時、センターのメンバーは関東圏に移動したという話を聞いて、一緒に飲んだ。
 震災の話を聞くに、家がまるごと流されたと聞いて、やはりあれは現実のものだったのかと感じた。
 しかし、センターの面子はみんな心身ともに元気そうだったのでホッとした。

 いろんな出来事があった冬季を終え、いよいよヨーロッパへの旅が始まった。

   ものすごく心配していた飛行機乗り換えは何とかギリギリ乗り継ぐことができた。
 ドバイ経由だったのだが、余裕で搭乗口に行ったと思って時間を潰していて、気になって電光掲示板を見ると、搭乗口が変更されていてしかもファイナルコール。
 あの時は泣きそうなくらい焦った。
 突然の搭乗口変更があるため、電光掲示板は気を付けておかないといけないという知識を身に着けた。

 まず辿り着いたのはスペイン・マドリード。
 ここで初代と合流する。
 久々に会った初代は元気そうだった。海外で留学しているだけあって、英語もペラペラでかなり尊敬した。
 マドリードで一泊後、電車でマラガへ。
 ここでLと合流する。
 勘違いで少しニアミスがあったものの、Lと無事合流し、目指すはポルトガル。

―ポルトガル―

 実は、初代からヨーロッパサンプリングの話を聞き、一つ思い付いたことがあった。
 筆者は結構インターネット運がある。この時も出会いはネットから始まった。
 ネットでマンボウについて検索しまくっていた時、ポルトガルで日本の定置網をしている会社があるのを発見していたのだ。
 そのブログには、なんとマンボウの写真も載っている!
 そう、そのポルトガルの定置網ではマンボウが獲れるのだ。
 相手は日本人。サンプリングができるなら、これ以上にありがたい状況はない。しかし、それまで連絡を取ったことはなかった。
 しかし、せっかくヨーロッパに行く。
 合流地点はスペインでポルトガルには近い。
 可能なら、足を延ばしてみたい……

 ダメ元で、ポルトガルを運営している方にメールを送り、初代とLにポルトガルサンプリングの話を申し出た。
 すると、何とか二日だけポルトガルでサンプリングできるように都合を合わせることができたのだ!
 ポルトガルで定置網船に乗るのには、事前に役所への届け出が必要だと運営者の方から教えてもらい、いろんな人に英文を見てもらって、誓約書と依頼書を作成した。
 マラガから車でブーンと目的地へ。
 着いたのはもう夜中だった。
 迷惑を承知で運営者召喚。無事合流してホテルで就寝。翌日、時化で船は出ない。
 しかし、マンボウを冷凍してくれていたので、それを調査する。
 いきなり10個体以上のサンプルをゲット!!
 助成金の適応期間外にヨーロッパサンプリングの準備をしていたので、半分くらいは生活費から出している。
 手ぶらで帰るのは嫌だったのだが、これは涙が出るほど嬉しかった。

 さて、戦いの始まりだ。
 制限時間は24時間。計測表にあるすべてのデータを取ることは難しい。制限時間の中でで10個体以上あるサンプルからできる限り形態データを取っていかなければならない。
 もしかしたら、ヨーロッパで獲れるマンボウはここで最初で最後かもしれない。
 必死になった。
 初代とLの協力も得て、これまでの経験から比較材料として面白いと思われる必要最低限の形態計測を行った。
 腰が痛い。
 時々、体を伸ばしながら、漁の邪魔にならないようにしながら、ただひたすらマシーンのようにデータを取りまくった。
 恐らく、初代とLは初回にして筆者の狂気的なサンプリング執念を感じたことと思う。
 気が付けば夜になっていた。

 夕食を終え、二つの選択肢が下された。

 ▽寝る。
 ▽寝ずに調査を続ける。

 ポルトガルは明日出発する。
 ここで寝てしまっては、ある意味一番楽しみにしていた内部形態を調べることができない。
 無理を承知で夜通し作業場を開けてくれないか聞いてみた。
 ありがたいことにOKの返事。
 初代とLは運転で疲れているのでゆっくり休んでもらい、ここからは自分一人との戦いとなった。
 問題ない。これまでも計測以外はほとんど自分一人でやってきた。
 結果的に言って、徹夜で解剖を行ったのは正解だった。
 ポルトガルのサンプルは日本のサンプルと骨の数が違うという事実が確認された。
 これが別種の領域になるのか、地域変異なのか遺伝解析の結果次第だが、日本とは別の集団のマンボウがいるということを確信したのである。

 夜中、倉庫の周りで謎の声(たぶんポルトガル語)が聞こえてきて、中に入って銃でも突きつけられたらどうしようと怯え、寒さとも戦いながら、気付いたら、定置網出港の時間になっていた。
 漁師が続々と集まる。初代やLもやって来ていた。
 もう少しデータを取ってみたい気がしたが、定置網も乗ってみたい……タイムリミットだ。
 マンボウ研究は『諦めることと諦めないことの取捨選択』が大事。
 ポルトガルの定置網に乗るチャンスはこの一度しかない。
 名残惜しい気もするが、データは大方取った。定置網に乗る!

 夜が明け、時化で出られないかと思われた定置網船。しかし、何とか出港してくれた。
 初代、Lと三人で、ポルトガルの漁、マンボウの獲れる現場はどんな感じなのか期待に胸が膨らむ……が、徹夜明けで船に乗るのは良くなかったのか、定置網船に乗って初めてリバースすることになった。
 最悪のコンディション。船員に心配され、水をたくさん飲んだ。正直言って、体調が悪く寝ていたのであまり記憶がない。
 しかし、定置網で水揚げする前にダイバーが網の中に入ったのには驚いた。日本ではないシステムだ。やはり海外はワイルドだ。
 マンボウも獲れていた。しかし、小さいものばかりだった。

 多大な迷惑を容認してくれた会社の方々に大感謝し、続いてスペインへUターン。
 しかし、後にも先にもここでのサンプリングがヨーロッパで一番まともにデータを取ることができた。
 サンプリング条件としては申し分のない最高の場所だった。

―スペイン―

 事前に聞いた話では5〜6月はヨーロッパ、地中海にマンボウがたくさん出現するとのことだった。
 ポルトガルは大西洋に面していたが、たくさん獲れていた。次のポイントも期待がかかる。
 車でブーンと飛ばして、着いたのはスペインの真ん中くらい。
 夜に着いたが、朝方すぐに定置網に乗ることが予想されるので車の中で寝る。
 テント暮らしと聞いていて、どんな生活をするのか、好奇心半分、不安半分だったが、まだテントがお披露目されることはなかった。
 そして夜が明け、サンプリングが始まる。

 海外でのサンプリングはまったく勝手がわからないので、すべてLに頼るしかない。
 まずは船に乗せてくれる船員を探す……がなかなか見つからない。Lが漁港に来た人たちにいろいろ聞きまくって、何とか出港前までに間に合うことができた。
 しかし、乗った船は定置網漁船というよりもボートに近い船で、スペースが限られている。
 ポルトガルより小規模な感じで網を引いていく。網が近くなり、引き揚げ前には、やはりダイバーが先に網の中に入って、中の魚を観察していた。

 網を引き始めると、わらわら魚が見え始める。
 いた!
 予想以上にマンボウがいる。
 戦闘開始だ。
 ここ、狭い船の上ででできることは、写真を撮り、DNAサンプルを採取し、全長を測る。これだけだった。
 しかし、無いよりはあったほうがいい。ヨーロッパは気軽に行けない。
 そう思って、Lが引き揚げ、初代が写真、筆者が計測とDNA採取という役割分担で高速で作業をこなしていく。

 マンボウはどうなったのかというと、すべて海へ還す。胸鰭を少し切っただけなので、今後の生活も対して支障はないと思われる。
 なぜこう思うのかと言うと、筆者はこれまでの日本のサンプリングで様々なマンボウの奇形を見てきた。
 すでに論文としてまとめたが、マンボウは飼育しなければ、自然下では考えている以上に強い生き物である。
 日本では鰭が欠けても巨大なサイズに成長している個体も観察した。
 海に還されたマンボウはすぐに海中へと消えていく。
 マンボウの調査が終わると、船はマグロ・カツオ類の仲間と思われる魚でいっぱいになった。

 その後、Lの別荘へ行く。まさにヨーロッパバカンスに来ているような錯覚を覚えた。
 しかし、どこであろうが、筆者がいる限りマンボウが付き纏う。
 Lが死んだマンボウを一尾もらっていたので、別荘で計測や解剖を行った。

   日本では濃度の高いアルコールが店で売られている印象はないが、海外では薬局やスーパーで意外に売っているものである。掃除の際に使うらしい。
 手持ちのアルコールがなくなれば、代わりのDNAサンプルの保存手段として用いることができる。
 しかし、何故かピンク色に染まっていることが多い。できれば変な着色がされていない無色透明な方が良さそうだ。

 一日毎に場所を移動しているかなりハードな旅。
 筆者はペーパードライバーかつ車を持っていないので圧倒的に運転経験がないので、クズ同然に全く役に立たない。
 運転手の希望最優先。ありがたく乗車させてもらう。
 そして、次に向かった先は水族館。
 そこにはマンボウを200個体解剖した寄生虫学者がいるとの話。

 会ってみると、これが女性だったりする。
 しかし、絶賛博士論文執筆中で時間がないということで、ディープな話はほとんど聞けず、水族館のマンボウを見るだけに終わった。
 しかし、このマンボウが普通じゃなかった。
 今まで見てきたマンボウは全部小さかった。言うなればまだまだ成長過程で種の特徴が出ているとは言い難い。
 水族館にいたマンボウは1m中ごろだった。パッと見の印象で何か違う。文章で表現しにくいが直感的に日本のマンボウとは違うという印象だった。
 これを確かめるにはやはり集めたサンプルのDNA解析の結果に期待がかかる。

―イタリア―

 スペインのお次はフランスを華麗にスルーしてイタリアへ。
 ここでいよいよテントのお披露目。テント生活の幕開けだった。
 イタリアはさすが、漁港であってもオシャレな景観だった。そう、下さえ見なければ……イタリアに限らず、潔癖症の毛がある筆者から見たヨーロッパは道端に犬の糞が落ちている印象がある。
 どうも聞くところによれば、犬の糞を専門に拾う人がいて、その人の仕事を奪ってしまうから拾ってはいけないのだそうだ。
 本当かどうかわからないが、個人的には拾ってほしい。フィールドで活動するので、踏むと結構精神的ダメージは大きい。
 ヨーロッパの景観を見てもう一つ思うことがある。結構急斜面に縦長の建物が建てられている。
 地中海はおだやかな海という印象だが、もし大きな地震や津波が来たら壊滅するだろう。
 実はヨーロッパに行く数日前にスペインで少し強い地震があって、やや混乱が生じているというニュースを見た。
 実際に来てみてそういった場面には出くわさなかったが、今、地球環境は大きく変動している。用心にこしたことはない。

 ここでのサンプリングは今までと異なり朝が早い。漁は一日に三回行われる。朝四時半くらい、朝八時半くらい、夕方四時くらい。
 マンボウがたくさん獲れる可能性があるのは漁獲していない時間が多い朝だ。
 ほぼ毎日定置網に乗ることになった……が、初代がここでタイムリミット。
 二日乗船経験して帰国することになった。

 それは大いなる不安の到来だった。
 Lとの会話は初代を通訳者としてしてきた部分が多い。
 しかし、Lは日本語がしゃべれない。
 人生初の英会話生活の始まりだった。

 宿泊はキャンプ場でテント生活。しかし、漁港は隣町。漁港近くにホテルはいくつかあるものの、高過ぎて長期サンプリングには向かない。
 結果、朝三時頃に起床して漁港に向かうシステムになった。
 マンボウは獲れるときはたくさん獲れる。ランダムに選んでデータを蓄積していく。
 陸に持ち帰ってマンボウを捌いたりすると、通報される恐れがあるという話で、すべて調査は船の上で行うことを余儀なくされた。
 何でも、マンボウはヨーロッパでも可愛い生き物として人気があり、保護すべき生物という認識があるのだという。
 日本人が陸地でマンボウを捌いている様子を一般の人々に見られたら批判がくる可能性があるという。
 筆者の一番嫌いな人間のエゴが展開された。
 日本人はイルカ・クジラ類を食べる民族という面では、海外では良く思われていない。
 確かに獲り過ぎは良くない。しかしそこは政府やそちらの研究者が獲り過ぎないよう、生態系が壊れない範囲で調整していると信じたい。
 食べれるものは食べる。それでいいじゃないか、他国の文化は放っておけよと個人的には思うのだが、どうも金儲けになるからなのか、海外は口うるさい。
 よくあるのがイルカは可愛いから保護すべきだけど、サメは人を襲うし怖いから保護しなくてもいいという偏った考えである。
 これはいけない。命は全部平等であるべきだ。外見だけで、人間の都合だけで守ったり滅ぼしたりしてはいけない。
 何もかも捨てて、その生き物を守るためにすべてを注ぎ込むというのなら、その情を買ってもいいと思うが、家畜の肉はボリボリ食う癖にイルカだのマグロだの肉は食ってはいけないというのは、人間のエゴが垣間見え過ぎて個人的には虫唾が走る思いがする。
 言いたいことはわかる。しかし、何でも保護が100%正しいのかと言われたらいくつか疑問点が生じる。
 難しい問題なのだ。もしかしたら正解はないのかもしれない……
 しかし、ここは異国だ。この土地に来たのなら、この土地のルールに従うべきだ。
 データの精度は多少落ちるが、安全に調査を行うためにアイデアを出してくれたLに感謝する。

 船は狭い。揺れる。漁の度に行ったり来たりするのは無駄なので、サンプリングは水をたくさん買って、朝に乗り、夕方の漁が終わって帰るまでずっと10時間くらい船に乗る形に落ち着いた。
 この時期、ヨーロッパは日が長い。朝六時くらいに日が昇り、夜十時くらいに日暮れをむかえる。
 昼間、一時から四時までシエスタという多くの店が閉まるお昼寝現象があるのだが、日が長いので確かにありかもという気にもなる。
 幸いにも固定されている船があり、その周りで他の船が動いて漁をするという方式だった。

 ここではダイバーがいなかった。しかし、大きな潜望鏡で水中を眺める役割の人がいた。これが長い。
 何を見ているのかイマイチわからなかったが、この潜望鏡で覗く作業が1〜2時間はかかる。
 その間、潜望鏡の役割以外の人はお昼寝。日本の定置網では絶対に見られない光景だ。
 マンボウがいても、大物の魚が入っていないと漁を行ってくれない時がしばしばあって、やきもきすることもあった。
 しかし、どの国にしても、見ず知らずの外人である筆者を気さくに船に乗せてくれるのはありがたい。感謝感謝だ。
 この研究は一人ではできない何事にも協力者には感謝しなければならない。


 イタリアでサンプリングを続けて、気付いたことがある。
 話を聞くに、この地方の定置網技術は日本由来だそうだ。
 しかし、大型魚狙いのためどこも網目が大きい。
 その結果、引き揚げの際、マンボウの鰭が絡まって死んでいる光景をよく見た。
 日本の定置網の目合いはヨーロッパより小さいため、マンボウの鰭が絡まることはまずない。
 加えて、網に絡まっているマンボウは生きていても目がないことが多かった。
 L曰く、おそらく他の生物に食われているという。マンボウの体は皮膚が厚い。目は唯一マンボウの柔らかい部分なのだ。

 イタリアのサンプリングで何度かLと喧嘩じみた状況になったことがある。
 ここから少しディープな話をしよう。
 これはお国柄、育ってきた環境が違うことが要因からかもしれなかった。
 彼はマンボウはできるだけ殺したくない、網に引っ掛かって死んだマンボウを調べればいいじゃないかという。
 彼はマンボウグッズを自らつくるくらいマンボウが好きなのだ。
 しかし、こちらとしては新鮮なサンプルが欲しい。
 何故なら網に引っ掛かったマンボウは鰭もボロボロで本来の形がわからない。
 良い形態データを取ることができない、加えて、遺伝解析ができるがどうかも怪しい。
 せっかく遠いところから生活費を削ってきているのにこれでは来ている意味がない。
 筆者は純粋にマンボウの生態が知りたい。この魚がいつどこで何をしているのか。
 保護に繋がるとか水産的に人の役に立つとか、そういうのはすべて後付けに過ぎない。

 考えが擦れ違う。
 マンボウキラーの異名をもらった。
 しかし、反論する気にはならなかった。
 殺し屋という呼ばれ方は心地いいものではないが、事実、内部形態を調べるには結局のところ、マンボウを犠牲にするしかないのだから。
 日本ではマンボウは食べるし、漁獲されたマンボウは船の上で放っておくと気が付いたら死んでいるから特に罪悪感を感じたことはなかった。
 しかし、こちらは船が小さいので、船に揚げるとマンボウがバタバタ動く音が気になってしまう。
 Lの目にはそれがもがき苦しんで死んでいくように目に映ったようだ。
 加えて、こちらではマンボウは食べないから罪悪感が生まれるのかもしれない。
 マンボウを殺すなら苦しまないように即殺してほしいと言われた。
 しかし、マンボウは生命力が強くそれはできなかった。これまでLは死んだマンボウだけで調査してきたのだろう。
 殺そうとしてもなかなか死なないマンボウの生命力の強さに驚いていた。
 個人的に、罪悪感は人間のエゴだと思う。
 何故なら、元気に動いていても目の無いマンボウは調査OKという基準だったし、マンボウに関しては口うるさく言われるものの、他の魚が水揚げされて踏まれたり放置されてバタバタしていても、Lは何も気に留めていない様子だった。
 個人的にこの偏ったモノを守るという考えは好きじゃない。マンボウについて言うのであれば、他の魚も即殺するように漁師に言えよ!と思ったのだ。
 しかし、口論したところで何も生まれないし、解決されるものではない。
 言いたいことはわかる。
 しかし、どうすることもできない問題を言われても困る。
 この手の話は聞き流すことが一番だと悟った。

 これが日本人だから、と日本人の印象に括り付けられるのはおかしい。
 これは一個人の価値観。筆者は日本人である前に、生物学者である。対象生物の犠牲は論文と言う――これもまた人間のエゴであるが――形で背負いたいと考える。

 終わりの見えないディープな話はこの辺にしておき、イタリアで念願のマンボウジャンプを見ることができた。
 漁師が潜望鏡で網の中を探っている時、なんとなくぼんやり見ていると、平べったいのが跳ねて落ちた。
 予期せぬ行動にビックリした。
 本当にマンボウは体を横にしてジャンプした。
 合計三回見ることができたのだが、写真やムービーに撮ることはできなかった。
 Lに聞いてみたら、ジャンプは何回も見たことがあるという。
 しかし、彼もまた撮影はできていないと言っていた。

 途中、一回、スイスの方に行ったが、海外に分布するマンボウの実態、それを取り巻く人々の関わり合いを知ることができた。
 ヨーロッパのサンプリングスタイルは『攻め型』だった。
 マンボウは各国で様々な扱われ方をしている。
 筆者は一、マンボウ研究者として、地球上に生息するマンボウの様々な側面を知りたいと思う。
 このサンプリングで一つ、失敗があったとすれば、大学の研究者と出会えなかったことだ。
 スペインで研究者と出会ったが、それは寄生虫学者。海からも遠かった。
 現場でサンプルを得ることは最も重要なことだが、大学には大学のレアサンプルが眠っていることがある。
 形態調査が一番可能だったのはポルトガルだった。
 もし次回、ヨーロッパに行く機会があるなら、ポルトガルで徹底的に形態調査を行いたい。 ――小笠原編(2011年10月12日〜2011年10月22日)――

 修士課程の頃から一度、足を運んでみたいと考えていた。
 しかし、お金がなかった。
 専門職に就いていない研究者は基本的に奨学金と言う借金を背負って研究を行っている。
 しかし、今年は助成金がもらえた。これは行けるときに行くしかない!
 そう思って行動に起こすことにした。

 小笠原は東京の真下、緯度的には沖縄あたりと同じ場所に位置する島々だ。
 二代目がかつてここに調査に行った。
 その結果は、手に入れたサンプル100%ウシマンボウという興味深いものだった。
 本当に普通のマンボウはいないのか?
 獲れる種類がウシマンボウのみなら、もっと計測データを増やしたい!

 小笠原はこの年、世界遺産に登録されたばかりだった。
 季節は秋。夏休みも過ぎ、観光客も少し落ち着いたのではないかと思った。
 二代目が残したコネを辿ってお世話になった研究者に連絡を取る。
 しかし、既に世代交代が行われていた。
 コネは途絶えた。
 しかし、現担当者の方がいろいろ紹介してくれるという話になり、小笠原へ行く決心を固めた。

 小笠原への行き方は東京発の船しかない。
 まずは東京に行き、一泊して、乗船した。
 船は大きかった。片道25時間かかるという。ある意味ヨーロッパよりも遠い国内。
 せっかくなので外に出て、海の色が変わるのを眺めていた。

 そして着いたは翌日の昼。
 小笠原のメイン島は父島だ。
 民宿に荷物を置き、担当の方と落ち合うまでメインストリートを探索した。
 さすが南の島なだけあって、見たことがない食べ物がたくさんある。
 食べ物屋もあるが、値段は高めだった。

 夜になり、調査の打ち合わせ。
 調査に来たからには一匹はサンプルをゲットして帰りたいものだが、小笠原はこれまでと状況が違った。
 いろいろ聞いていくうちに判明したのは、小笠原には定置網が存在しないということだった。
 小笠原で主に行われているのは『たて縄』と呼ばれる、延縄の深いバージョンだった。
 要するに、ここでマンボウを得るには釣らなければならないのだ。
 これは難しい。
 しかも、漁協に所属している漁師は一船一船頭がほとんどなのだという。
 要するに、船で一人で漁に行くとの話だ。

 二代目から小笠原でマンボウを獲ることは難しいと聞いていたので、今回は獲れたらラッキーという感じのスタイルでいくことにした。
 漁師を紹介してもらい、話を聞いてみる。
 すると、ここ最近は見ていないという話が多かった……が、聞く人によってまちまちだった。
 今年も見たという情報もあることから、いるにはいるみたいだ。
 ただ、獲る方法がない。
 そんな印象を抱いた。

 定置網が無いので、漁師から獲れたら連絡をもらうという『待ち型』のスタイルにせざるを得なかったが、せっかくやってきたのに待っているだけではいられない。
 そこで、初めて雑誌記者よろしくの店々への聞き込み調査を行おうと決めた。
 メインストリートにはダイビング、シュノーケリング、水上スキー、イルカウォッチングなどなど様々なマリンレジャーショップがある。
 それらのショップに片っ端から聞き込みをしてみようと考えたのだ。

 とりあえずショップに入る→ 店長を呼ぶ→ マンボウの研究をしている旨を話す→ 話を聞く→ 写真や動画を持っていたらもらう
 こんな感じで情報を集めた。数撃てばいくつかはヒットする理論で、父島のほぼ全ショップに足を運び名刺を配りまくった。
 営業マンは大変だなという気分になった。
 しかし、あちこち足を運んでいくと、どのショップの人が新規に店を開いたのかなどというという島人の繋がりが見えてくる。
 全く情報が集まらないかと思っていたが、しかし、そこそこ収穫はあった。

 集まった写真や映像を見てみると、どうも中型後半のサイズの個体がよく出現するようだ。
 しかし、目撃情報の場所や出現季節はバラバラ。
 見た感じ、マンボウかウシマンボウかは判断しにくいが、どちらかと言えばウシマンボウに近いような気がした。
 もう一つ、面白い情報を入手した。どうもマンボウ類の稚魚が出現するらしい。
 一件だけだったら偶然現れたのかもしれないが、この情報は二件あった。異なるショップがお互いに知らない情報を持っていた。それはつまり、稚魚が出現する可能性は大いにあるということだ。

 一日中、自転車で右へ左へ、西へ東へと島を走り回った甲斐があった。
 ちなみに父島は自転車で六時間程度で島を一周することができる。バイクだと二時間くらいらしい。
 布石は投げた。
 滞在期間中にマンボウは獲れなかったが、今後獲れることと連絡が来ることを期待したい。



 小笠原で東京に寄ったついでに、震災の被災地である岩手に少しだけ足を延ばしてみることにした。
 岩手について最初に思った感想は、町がなくなっているということだった。
 かつてどんな風景があったのかを思い出せないくらいに、建物が消えていた。
 壊れた建物。焦げた木々。積み重ねられた瓦礫。かつて家があった敷地に咲く花。
 知らない景色だった。そして、海が近いと感じた。
 震災から半年が経過し、町は復興に向かっているような気配があった。
 しかし、まだまだだ。
 かつての景色に戻るにはまだまだ時間がかかる気がした。

   歩いていると、センターの職員と遭遇した。
 懐かしい。
 車に乗せてもらい、センターに連れて行ってもらう。
 センターは幸運にも形は残っていた。三階は機能しているのだという。
 印象的だったのが、センターの裏にあった民家の敷地内に巨大な船があったこと。
 津波で流されてきたのだという。
 センターや街並みを見て歩き、震災の大きさをこの目で感じた。

 一応、職員にマンボウ情報を聞いてみたところ、定置網が流されたことで、かなり内湾まで入ってきているとの話だった。
 退職された職員の家にも足を運び、いろいろ懐かしい話を聞いた。
 翌日、運営が再開されている漁港に連れて行ってもらった。
 すると、マンボウがいた!
 震災後もマンボウはこの場所に回遊してきている。
 少し胸が震える思いだった。
 魚屋で聞いた情報によると、大型個体が季節外れにやってきているとの話だった。
 本当かどうかはわからないが、もう少し復旧したら原点に戻るのもいいかもしれないと感じた。

――台湾編(2011年12月2日〜2011年12月27日)――

 昨年のサンプリングで冬季にヤリマンボウがたくさん獲れることを知った。
 今後の都合をいろいろ考えて十二月に行くのが良さそうだと自己判断し、サンプリングしたい旨のメールを台湾の先生Cに送ってみた。
 すると、来ていいよという旨の返事が返ってきたので準備を進めて台湾に向かった。
 ところが、台湾に着いてCと話をしてみると、一番獲れる時期は翌月ということを知らされて衝撃を受けた。
 願わくば、事前にベストシーズンを教えておいて欲しかったと少し後悔
 しかし、来てしまったのなら、獲れるのを願うしかない。
 前回の台湾はXがいた。パラオは同行者がいた。ヨーロッパは初代がいた。しかし、今回は日本人の助っ人がいない。
 正真正銘の一人海外サンプリングとなった。

 台湾に到着して三日間くらいはCも授業がないということで、ひたすら漁港に挨拶回りを兼ねて連れて行ってもらった。
 意外に英語のコミュニケーションができるとわかって一安心。
 しかし、その後のシステムは完全な『待ち型』だった。
『待ち型』は『攻め型』のサンプリング様式と違って、サンプルを見逃す確率が高い。
 しかし、Cは台湾唯一のマンボウ研究者で、この地域のことを知り尽くしている。
『待ち型』でもマンボウ類が獲れることに期待して、Cの指示に従った。
 台湾に来てから数日、筆者は腹を下していた。
 サンプリングどころではない絶不調だった。
 ネット検索してみると、台湾の食材は油が多いのでできるだけ取らない方がいいということが書かれているのを発見した。
 これには思い当たる節があった。
 その後、薬をもらって何とか回復したのだが、昨年も腹を下したので、暴飲暴食は気を付けなければならないと肝に命じた。
 筆者は腹が弱いとあらかじめ周りに教えておくことも重要かもしれない。
 そうしたら、必要以上に食べさされることもないだろうと思う。

 昨年は一つの定置網にしか行かなかった。
 しかし、さらに二ヵ所、近くに定置があることが明らかになった。
 たまにこういう風な、徐々に研究協力の規模を広げていく感じをロールプレイングゲームに似ているなと感じることがある。
 そう、人生はゲームによく例えられる。
 自分の取った行動がそのまますべてサンプル確保に繋がるのだ。

 毎日Cと連絡を取り、Cの都合に合わせたサンプリングスタイルを行うことになったが、一般的には、Cと朝、大学へ行く →9時前後に連絡が来るのを待つ →連絡が来たら定置網に向かう →来なかったらそのまま夕方5時前後に家に帰る、という感じだった。

 十二月は少ないと聞いていたが、やはり少なかった。
 五十個体は計測するつもりでいたのだが、結局数個体しか計測できなかった。
 うち、四個体は『待ち型』特有の連係ミスで逃してしまった。
 しかし、仕方がない。
 ここでのサンプリングの仕方がだいたいわかってきた

 台湾の定置網はこれまで筆者が見てきた他国と比べて事情は複雑だった。
 まず、社長は台湾人。これはわかる。しかし、社長と船長は別の存在だ。
 社長は漁師を雇う。しかし、台湾人の漁師はコストが高いので雇わない。
 よって、漁師はほとんどが中国人で、少しのフィリピン人や他の国の人もいる。
 しかし、中国人は亡命してこないように法的に上陸が禁止されている。
 なので、中国人は常に船の上で生活している。そして、船長は中国人が担当する。
 中国人の乗っている船は漁獲を担当する船だ。
 一方、上陸が許可されているその他の国の人は漁獲船から漁獲物を陸地に運ぶためにイカダのようなボートに乗る。
 漁師の資格を持っていれば、定置網の船に乗ることができる。
 しかし、それ以外の職の人は、政府に許可申請を出さなければならない。

 初め、このシステムが全然見えなかった。
 しかし、質問をぶつけていくことで、ようやく台湾の定置網事情がわかってきたのだ。
 また、マンボウ類について討論していく中で、台湾の漁師はマンボウ属をいくつかのタイプに呼び分けていることがわかった。
 聞くところによると、それぞれのタイプは味が違い、値段も違うのだという。
 しかし、ここではマンボウ属自体がなかなか上がらないので、詳細は不明。
 遺伝解析を行いたいところだが、今後獲れることに期待するという感じで終わってしまった。

 筆者はもしかしたら雨男なのかもしれない。
 そう思うくらい、毎日が雨だった。
 おかげで、波が荒れ、漁ができない日も多々あった。
 そんなこんなで一ヶ月滞在したのにも関わらず、サンプル数は少ない。

 台湾はマンボウ類を丸ごと食べるという事情もあり、なかなか形態を調べるのは難しい。
 やはり、形態を調査するなら、日本が一番適していると感じた瞬間だった。
 サンプリングはイマイチだったものの、それ以外の収穫もそれなりにはあった。
 夜市に行けたこと、マンボウアイスを食べられたこと、ホテルから自転車で漁港に行けたこと……次へのステップが整ったような感じだった。
 また台湾に行かなければならない……

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 2012年1月19日作成 2012年7月25日更新


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